往復書簡、ふたりの本棚

本や音楽×日々の出来事、ゆき(うっちゃん)とりえ(やそりえ)の往復書簡

いまをつかまえる~『自分と出会う』 谷川俊太郎~ りえより

 五月晴れという言葉にぴったりの季節。つつじがまさに「今が盛り」とばかりに咲いています。

 この4~5月はたくさんのひとと会う期間だったと振り返っています。初めて会うひと・何度か会を重ねて知り合えたひと・久しぶりに再会したなつかしいひと・短期間に何度も会えて嬉しくときを過ごしたひと。そしてそれは翻って「わたし」の様々な一面にも、改めて出会う時間だった。

 同じひとと毎日会って、毎日同じように見えるやり取りをしていても、ふとしたときに自分の内側の反応が昨日とは違うことに気付く。まして久しぶりの出会いを通してみると、ずいぶん自分が遠くに来たような・かと思うとそれほど動いてないような状態にも気付く。

 ひとつのトピックは、東京に行ったこと。なつかしい中野のお店でかつて恋していたひととばったり会った。お母さんのような気持ちで彼の近況を聞き、ふたりのあいだに流れる空気をなだめて少しだけ香りも付けて、再会の夜がキラキラするようにちょっと魔法をかけるみたいに。それは東京に住んでいた時のわたしと一見同じようで、まったく違う。「東京のわたし」を含めて包んでしまうふくよかさ。ほんの2年前なのにね、それはそれは遠くに来た感じがしたなぁ。

 その一方で、大雨のなか美味しいワインと日本酒で鱈腹酔っ払って、靴下が濡れていくのを感じながらうつむいていても思わずくふふと笑いながら急ぐ帰り道は、世界がぜんぶ自分の味方みたいで、大学生と何も変わっていない。

 

『自分と出会う』 谷川俊太郎

 

 ほんとは誰でも自分とつきあうのは大変なんじゃないか。ただ大変なのを自分じゃなく、他人のせいにしてるだけじゃないか。大変な自分と出会うまでは、ほんとに自分と出会ったこともならないんじゃないか。上手に自分と出会うのを避けていくのも、ひとつの生きかたかもしれないけれど。

 私はもう六十歳をすぎたから、出会う自分も六十歳をすぎている。すぎてはいるのだが、六十歳の私のうちに三歳の自分や、二十歳の自分、四十歳の自分がいるのに驚かされる。現在の自分と出会うには、過去の自分と出会わざるをえないのがしんどい。自分の洗い直しとでも言うのだろうか、そんなことをやっているような気がするが、洗い直しても自分は別にきれいにはならないし、新品に戻るわけでもない、かえって糸がほつれかけたりするのが困る。

 過去の自分と出会うのはしかたないにしても、年をとると未来の自分とももうじき出会うんだと覚悟を決めるようになる。つまり老いと死をぬきにしては自分とつきあえない。そろそろ自分とおさらば出来るのがそう悪い気もしないのは、自分に甘い私にも、自分をもてあましているところがなきにしもあらずだったのか。そうだとすると少しは自分にも興味がわく。自分でも気づかずにかくしていた本音がいったいどういうものか。それをほじくり出すのも老後の楽しみのひとつかもしれない。これはこわいもの見たさか。

 

 

 これからは未来の自分とも出会うのか!とどきどきした、谷川さんのエッセイ集「ひとり暮らし」より。どのエッセイも軽やかで、潔くて、明るい。

 まだわたしは自分とつきあっていたいし、いまを味わうので忙しい。だから過去やいまをつかまえて一粒一粒を観察することも心地良いし楽しいけど、また新しく誰かと出会い、自分とも出会いながら次に進んでいくのだろうなぁ。

 5月から6月に向けて、どんな出来事があるのかな。

 いただきもので。豆ご飯。

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