あざやかな夏の余韻~♪あの夏の花火 Dreams Come True~ゆきより
遠くから 胸震わす 音が響いてくる
蒸し暑い闇の向こうが 焼けてくる
閃光が呼び覚ました あの夏の花火を
川風が運んだ 火薬の匂いを
人であふれる堤防 はぐれないように
まぢかで見た10号玉 まばたきを忘れた
前回に引き続いてドリカム。ドキドキそわそわ、わくわくする、でも切なさの匂いもする情景の歌い出しが好き。夏って明るく弾けてはっちゃけるようなイメージが先行するけれど、蒸し暑さの奥に切なさが潜んでいるよね。そういうのも夏が好きな理由の一つなのかもしれない。
目の前が海で、そこから花火が打ちあがるという高層マンションに住んでいる友人が、花火大会の日に招待してくれた。広いテラスから、悠々と飲み物片手に海上から打ちあがる瞬間から花火を見ることができた。遮る物は何もなく、大きな花火は自分だけのもののようで、トイレにもいつでも行けるし、すぐそこにエアコンの効いた室内が待ち構えている。眼下には、たくさんの人たちがビニルシートの上にぎゅうぎゅうに座っているのが見えた。ちょっとセレブ気分で優越感はある。だけど、なんだろう。人込みで蒸し暑い中、木や人の頭がちょっと邪魔で見えにくいところから見ていたあの感じが恋しい気がした。見知らぬ大勢の人たちと同時にあげる歓声や、思わず漏れるうっとりしたため息の合唱、長い間大変な思いで待っていた後のようやく始まる喜び。そして、人込みにうんざりして、来年もこんな思いまでして見に来るかしら?とぐったりしながら思う家路。その全部がきっと私の中での花火大会なんだと思う。それが好きとか嫌いとかではなくて。記憶や印象が体中に染み入っているものなんだろう。だからセレブ気分で見た今年の花火は、まったく別の花火だった。
歌の中で一番好きな歌詞が冒頭の部分よりもう少し先にある。
川に落ちる花びらが 消えてく間際に
立てる音がせつなくて 目をそらせなかった
散り消えゆく火花の最後の最後まで見届けたくて息をのむ横顔の一つ一つが、群衆の中で一人きり切りとられた静寂にたたずむ。夏のピークと夏の終わりを同時に感じ胸にしまう。
リアルを愛しむ ~『サヨナラにサヨナラ』 中島らも~りえより
8月に入って10日が経ち、どんどん夏が熟していく気配。立秋が過ぎて、日差しの色合いが変わったのも感じる。圧倒されるような王様って感じの強さから、ふくよかで底なしの女性的な包容力へ。
夏生まれだからか、夏の思い出はどれも少し特別で、うっとりするような印象。あなたとの夏の思い出はその中で異彩を放つ明るさと勢いがある。さらりと汗をかきながら笑うあなたはいつも夏と友だちで、暑さとか太陽と戦わない。
夏になると必ず思い浮かべてしまうのは、ふたりでアイスを買おうと外に出て、雨に降られた夜のこと。最初は早歩きになったり雨をよけようとしたりするけど、だんだんごまかしようがないくらい髪も服も濡れてきて、途中であーもういいやって何かがはずれると、ぐーんと自由なテンションがやってくる。おかしくてたまらなくなって、笑いながら歌いながら帰ったっけ。
この前、あなたの家に行ったときのことも鮮やかなとっておきの夏の思い出。わたしが持って行ったいつものおかずをすっかり平らげてくれたあなたの家族、あなたの家ではいつもそうなるように無防備に酔っ払ったわたし。誰も遠慮せず、今のこと未来のことを話す豊かな食卓。夜が明けて、予定がない平日の緩やかな時間は、でも学生の頃と同じなようで同じではない。「ゆきちゃんのおなかに赤ちゃんがいる」という事実が静かに行きわたっていて、お互いたくさん時間を積み重ねて今があることをなんとなくしみじみ感じていたよね。
最近こうして自分が体験したことを自分の人生として味わい、味わうがゆえにくっきりと思い出せるということが、わたしの特徴のひとつなんだと知りました。「よく覚えてるね!」と、本当によく言われるんだけど、そしてその度に「みんなそうじゃないの?」と不思議に思ってた。けど、わたしが出来事を反芻する頻度たるや細かさたるや、あまり一般的ではないらしい。体験しているそのときにすら「思い出す」ような感覚で味わっている。
この「反芻力」(なんてあるのか?知らんけど…)の基礎は、しょっちゅう手紙を書いていたことにあると思ってる。特にあなたとの間に行き交った言葉は濃密で、昔の(あなたからもらった)手紙を開くと甘やかな記憶がそのときの匂いを含んで、たちまち立ち上がる。
『人間の実相は刻々と変わっていく。無限分の一秒前よりも無限分の一秒後には、無限分の一だけ愛が冷めているかもしれない。だから肝心なのは、想う相手をいつでも腕の中に抱きしめていることだ。』
今をちゃんと確かめて、味わいたい。刻々と過ぎるリアルを生々しく感じたい。それが生きてるということだ、とも思う。
うちから見えるマジックアワー。瞬間瞬間に変化して、目が離せない。空にみとれつつ、大切なひとと過ごした記憶を思い出しつつ、景色を見せてくれた神さまに感謝したりこれまで出会った大切なひとたちが美しい時間を過ごしていますようにと祈る。二度とこない今このときを、たっぷり味わえますように、と。
Our rings~♪薬指の決心 Dreams Come True~ゆきより
体の変化に自分で自分を持て余している間、後でこのブログに書こうと心にとどめていた本や音楽があった。だけど、大好きな夏がやってきて、1週間違いの誕生日の私たちが共にまた新しい年を重ね、私の体も楽になってきて、なんだか新しい自分になったような自分を取り戻したようなわくわくした気持ちだから、今のフレッシュな気持ちを綴りたい。
夏のはじめ、三宮のタイ料理屋さんでグリーンカレーとトムヤムを食べながら、あなたの記念のスペシャルな指輪をどうしても他のものが選べなくて、私と同じものにしたことを教えてくれた。それは二人がそれぞれ知らない間に、好きになった小さなジュエリーショップのもの。お互いが同じような時期に、別々の場所でそこのアクセサリーをちょっと特別な気持ちで身に着けていた。あなたはピアスで私は指輪。会うと必ずあなたは私の指輪をほめてくれて、その度に私は指輪を選んだときの気持ちを思い出して嬉しくなった。
先日、あなたがいくつかの最高に美味しい手作りデリ風おかずを携えて泊まりに来てくれて、久しぶりにとりとめなくゆっくり過ごしたよね。一緒に作った生春巻き、たくさんの付けダレ、あなたのおかずと、私の母のおかずと、スパークリングワインと、夫の渾身の生のエビから炒ったエビ塩(笑)。ただ一緒に食べて飲んでいることがこんなにも豊かであたたかなことだって、幸せの根本を再確認した。
♪薬指の決心 Dreams Come True
あなたと会えた 私を誇りに思う
ずっと一緒ね 輝くイシに誓って
それぞれの大切なひとと、そして私とあなたが結ばれているようなこの指輪を改めて愛おしく思う。あなたの美味しいおかずを一緒に毎日食べながら、あなたたちが暮らしを積み重ねている、私も私の毎日を美味しい笑顔とともに重ねている。そして私とあなたは、暮らしを共にするひととはまた別のところで繋がっている。宇宙は平面的ではない。
輝く夏のエネルギー ~♪déjà vu 斉藤和義~ りえより
急に(と思っているのは人間だけで、自然界は着々と準備した結果なのでしょうが)梅雨が明け、じりじりした大暑らしい日差し。夏休みに入ったその日から、世間の空気も「夏休み」になったことにも気付きます。プールの塩素のにおいみたいな昼過ぎの熟した眠気みたいな。
ゆるやかな変化~『むかしはものをおもはざりけり』~りえより
あっという間に新緑の季節が過ぎて、梅雨入り・夏へ向かう季節へ進んでいます。
よりそう温かさ~『大丈夫やで』坂本フジヱ~ゆきより
本が好きだと心底思うのは、こういう本との出会い。
情報や新しい知識ではなく、その作者と共鳴したとき。文章からわきでるオーラを感じるのかな、その本の空気感が私を包み込み心地よくさせる。文字の詰まった紙の塊が一気に魂を帯びた存在になる。人を好きになるのと同じ。運命の出会いだと感じずにはいられない。
以前から、助産院での自然分娩を望んでいた。やはりリスクもあると聞くし、家族も不安があるだろうから、医療介入のない自然分娩についての本を探してみようと思ったらこの本に出会った。
ほとんどが1ページずつの筆者坂本さんの経験に基づく短いアドバイスで、読みやすい。けれど、知識としての情報うんぬんではなく、全体にあふれる彼女の包容力に心が溶かされていく。本当に、昔ながらの懐かしさただようおうちのような和歌山の坂本助産院に行って、坂本さんが穏やかにやさしく語ってくれているような感覚になった。特別なことでなく、母や祖母が言ってくれるような「冷やしたらだめよ」とか「つわりが苦しいのは、ホルモンが悪さしてるからよ。自分だけやない、古今東西みんなが通る道。」なんてことを読んでは不思議と癒された。だからつい、ふとしたときにぽろぽろっと涙が出てしまったんだと思う。正直、今はもうどのページで泣いてしまったのかわからないくらい。
『赤ちゃんは、おなかの中からちゃあんと外の様子を感じています。受胎を知ったそのときから、子育ては始まっているんです。「この家は楽しそう!」そう感じることが赤ちゃんにとっての成長エネルギー。新米ママの初仕事は「楽しそうに暮らす」こと。』
毎日つわりで苦しくて、自分のしんどさにばかりとらわれていたかもしれない。
この世は素晴らしい、そう思って子どもには生きてほしい。正に一心同体の今、私がどう生きているかがこの子の外の世界を知るすべて。見るもの感じるものすべてが二人分の意味を成すのかと思うと二倍嬉しくもなる。
あなたから届いた安産のお守りと手紙、本当に嬉しかった。私の目となって、耳となって、肌となって感じてくれたとっても素敵な場所で、深く私のことを想って求めてくれたもの。お守りがまとった気を感じるよ。愛されて、守られて、共鳴して生きてるなって改めて思います。苦しいことが多い気もするけれど、その何百倍ものエネルギーで強く時々こう思う。この世は美しい、生きるとは幸せなこと。そう思える私はやっぱりとても幸せだ。この人生と、この運命に感謝。
P.S. 妊娠中でホルモンが悪さしてるから、いつも以上に重い文章かもね。第三者が読む場合はひくかも?!第三者は気にしないブログなので悪しからず。
いまをつかまえる~『自分と出会う』 谷川俊太郎~ りえより
五月晴れという言葉にぴったりの季節。つつじがまさに「今が盛り」とばかりに咲いています。
この4~5月はたくさんのひとと会う期間だったと振り返っています。初めて会うひと・何度か会を重ねて知り合えたひと・久しぶりに再会したなつかしいひと・短期間に何度も会えて嬉しくときを過ごしたひと。そしてそれは翻って「わたし」の様々な一面にも、改めて出会う時間だった。
同じひとと毎日会って、毎日同じように見えるやり取りをしていても、ふとしたときに自分の内側の反応が昨日とは違うことに気付く。まして久しぶりの出会いを通してみると、ずいぶん自分が遠くに来たような・かと思うとそれほど動いてないような状態にも気付く。
ひとつのトピックは、東京に行ったこと。なつかしい中野のお店でかつて恋していたひととばったり会った。お母さんのような気持ちで彼の近況を聞き、ふたりのあいだに流れる空気をなだめて少しだけ香りも付けて、再会の夜がキラキラするようにちょっと魔法をかけるみたいに。それは東京に住んでいた時のわたしと一見同じようで、まったく違う。「東京のわたし」を含めて包んでしまうふくよかさ。ほんの2年前なのにね、それはそれは遠くに来た感じがしたなぁ。
その一方で、大雨のなか美味しいワインと日本酒で鱈腹酔っ払って、靴下が濡れていくのを感じながらうつむいていても思わずくふふと笑いながら急ぐ帰り道は、世界がぜんぶ自分の味方みたいで、大学生と何も変わっていない。
『自分と出会う』 谷川俊太郎
ほんとは誰でも自分とつきあうのは大変なんじゃないか。ただ大変なのを自分じゃなく、他人のせいにしてるだけじゃないか。大変な自分と出会うまでは、ほんとに自分と出会ったこともならないんじゃないか。上手に自分と出会うのを避けていくのも、ひとつの生きかたかもしれないけれど。
私はもう六十歳をすぎたから、出会う自分も六十歳をすぎている。すぎてはいるのだが、六十歳の私のうちに三歳の自分や、二十歳の自分、四十歳の自分がいるのに驚かされる。現在の自分と出会うには、過去の自分と出会わざるをえないのがしんどい。自分の洗い直しとでも言うのだろうか、そんなことをやっているような気がするが、洗い直しても自分は別にきれいにはならないし、新品に戻るわけでもない、かえって糸がほつれかけたりするのが困る。
過去の自分と出会うのはしかたないにしても、年をとると未来の自分とももうじき出会うんだと覚悟を決めるようになる。つまり老いと死をぬきにしては自分とつきあえない。そろそろ自分とおさらば出来るのがそう悪い気もしないのは、自分に甘い私にも、自分をもてあましているところがなきにしもあらずだったのか。そうだとすると少しは自分にも興味がわく。自分でも気づかずにかくしていた本音がいったいどういうものか。それをほじくり出すのも老後の楽しみのひとつかもしれない。これはこわいもの見たさか。
これからは未来の自分とも出会うのか!とどきどきした、谷川さんのエッセイ集「ひとり暮らし」より。どのエッセイも軽やかで、潔くて、明るい。
まだわたしは自分とつきあっていたいし、いまを味わうので忙しい。だから過去やいまをつかまえて一粒一粒を観察することも心地良いし楽しいけど、また新しく誰かと出会い、自分とも出会いながら次に進んでいくのだろうなぁ。
5月から6月に向けて、どんな出来事があるのかな。
いただきもので。豆ご飯。