往復書簡、ふたりの本棚

本や音楽×日々の出来事、ゆき(うっちゃん)とりえ(やそりえ)の往復書簡

見えない家族 ~♪パーマ屋ゆんた ビギン~ りえより

 あなたの手紙を読んでから、『花束をきみに』を口ずさむ毎日。子どもに対する言葉として噛みしめると、また味わい深いね。引用してくれた、♪両手でも抱えきれないまばゆい風景の数々をありがとう…って、もう今にしてすでに、娘に対して何百回でも言えると思う。誰かに恋したときって、世界が一気に色鮮やかに変わる気がするんだけど、出産後はそれ以上。毎日が毎分毎秒が、新しくて懐かしい。彼女はただ存在している・生きているだけなのに、こんな世界に連れてきてくれた。

 そして命の連鎖は愛情の連鎖…そうだね、そしてその連鎖は縦だけでなく横にもつながっているような気がします。という気付きから、今日の手紙を書いてみよう。 

 

 先日、風の強い日に娘を抱っこして出掛けたら帰り道で雨に遭ってしまった。空もようがあやしいなーとは思っていたんだけど、結構ちゃんと降ってきたのね。両手は買い物の荷物(重い)と娘のフードを押さえるので埋まっているし、コンビニに入って傘を買うにも、サイフを取り出したりレジでのやり取りがままならない感じ。急いで帰ろうと横断歩道で信号待ちしていたら、同じく信号待ちしていたご婦人がそっと傘に入れてくれた。その女性の隣に立ったときに、女同士なのか母親同士なのか分からないけれど、何かつながっている故の予感はあったのだけど、“当然”というふうに傘に入れてもらえて、納得と驚きを感じたのでした。晴れていたのにね、でも雲行きがあやしい感じはありましたよね、と言葉を交わしていると信号が変わり、さぁじゃ急いで帰ってあげて、というように彼女との交わりは終わったのだけど、「誰かに愛情をかけられた(娘もわたしも)」という印象が残っています。

 もうひとつ、4月から通う保育園で。そこは4月開園の新しい保育園で、最近建物ができて内装が進んでいるところ。通園の感覚をつかむために、毎日の散歩コースにしてるんだけど、数日前、作業をしている先生と窓越しに目が合って、どうぞ中へ入ってみて行ってください、ということになった。娘はこれまで一時預かりで言った幾つかの保育園では常に自分を閉じていた…声を出さないとかミルクを飲まないとか遊ばずじっと観察しているとかだった…のだけど、そのときは自分から保育園の環境やおもちゃに興味を示して手を伸ばし、しかも先生にも声を出して笑いかけた(!)のでした。先生の方も、“いつものこと”のように娘に話しかけているし。少し先生が場を離れたら、娘は不満そうに「わぁー」と声を出し先生は「はーいはい」と応じる…何かずっと以前から通じ合っていたのだねと思うしかないような。

 今の家族、とは別の次元でわたしたちには家族がいるのかもしれない。っていうか、出会うひとやこんな大勢の中で接点があるって、それだけで家族っていうことなのかもしれない。

 

さー 赤ちゃんだったよ初カットは(ゆいさー)

   今でも指が思い出すさ(さーさ)

 

なんでなんでなのかね運命は(でんさー)

それでも信じる方がいい

髪は髪は切ってもそろえても(ゆいさー)

同じようには伸びないさ(でんさー)

だからパーマ屋があるわけさ 

 

 初めてこの歌をラジオで聞いたときは、その優しくて甘いメロディーが恋愛の歌かと思った。でもパーマ屋さんが沖縄を出る、近所の女の子へ向けた歌だった。今は分かる。優しくて甘い愛情のつながりは、縦にも横にも自在に拡がっているもの。

 

 まだ生まれて1年経たない赤ちゃんは、どんな世界を生きているんだろう?自分と他人・今日と明日・外と内、そんな区別がない世界にいるんじゃないかと時々想像してる。

 最近パンを焼くのが…というかこねるのが、癒し。小さく丸めたパンは小さな人へ。

f:id:yukirie:20180314101755j:plain