往復書簡、ふたりの本棚

本や音楽×日々の出来事、ゆき(うっちゃん)とりえ(やそりえ)の往復書簡

母と女~『いのちのために、いのちをかけよ』吉村正~ゆきより

 一年以上ぶりのブログ再開、二人ともが母になり大変化して確かに笑えるよね。あなたらしい、いや、あなたらしさがより深みを増してパワーアップした、料理と大切なひとと自分の暮らしに対する愛おしさに満ちた文章に強ささえ感じました。この一年で、あなたも美味しい滋養あふれるスープのように、いいお塩で旨味が引き立ってるのではないでしょうか。そんなあなたにまた会いたくなったし、あなたの料理を味わいたくてうずうずします。

 出産と子育てで、本当に驚くほどの自分自身の変化や奥に実は秘めていたのであろうものに気づくよね。言葉にしてもしきれない感覚的なことが多いけれど、そういうのを感じるのは怖いような嬉しいような不思議な気分。今まで積みあげてきた自分や理性なんかが吹き飛んで崩れていくことに対する「なんてこった!」が私の中で毎日起きている。
 私は、それこそ感覚的に助産院での医療介入なしの自然分娩にこだわって、感覚的にきっと大丈夫って思ってた。たくさんの難しい、もしくは危なかった出産を周りから聞いてきたから一抹の不安はあったけれど、それよりもこういう出産をしたいって思いの方が遥かに強かった。感覚的なところ理屈的なところがまぜこぜになってややこしい私の性質上、自然分娩推奨派の文献を読んで自分の感覚的な判断の理由というか根源みたいなものを知りたい、確かめたいと思った。こういうところがあなたと違うよね。あなたは、自分の感覚を気持ち良く受け入れて、すぱっと行動してそれ以上でもそれ以下でもありませんよ、何か?って堂々としてる。そういうのも自己肯定感が強い故だと分析しては尊敬しているのよ。

人間の全身の細胞は六十兆個あるそうですが、その一つ一つには女の印がついているんですよね。これは女である知性が肉体の中に宿っているということで、どうしたら赤ちゃんを産めるか、何をすればどうなるか、この体がすべて知っているということ。

 出産するまでは、女という単語と母という単語はしばしば対義語として私の中でカテゴライズされていたように思う。一般的にもそうであるように思う。だけど、母になることは究極に女になることで、それまで「女」という言葉でイメージしてきたことの対義語ではなく明らかに延長上の突っ切っちゃった神の領域。私は今すごくすごく女であることを感じまくっている。
 出産しない、していない女性を非難したり傷つけたりしてはいけない(ミルク育児か母乳育児かのそれと同じだね)風潮をもろともせず、女性の神聖さや女は出産するために存在していることを断言しているこの本は、賛否両論が激しくある。この本で書いてあるのだけれど、一つ一つ、一人一人を傷つけないように過度に反応しすぎたりして、全体的な本質を言えなくなってしまって、そして見えなくなってしまうのは確かに違うのかも。
生きるって面白いね、経験するって面白いね、様々な考察は続きます。
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 酔っ払った夫に息子を任せて、買い物に出て帰ってきたら、夫はノックアウト状態で息子は一人で絵本を読んでいた。彼も本が欠かせない毎日を楽しんでいる。