往復書簡、ふたりの本棚

本や音楽×日々の出来事、ゆき(うっちゃん)とりえ(やそりえ)の往復書簡

母と女(その2) ~♪道 宇多田ヒカル~ りえより

 近くの大阪城公園へ梅を見に行きました。あまりにも人が多くて、結局隣りの団地の梅が一番キレイと思ってしまった、そんな1日。

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 さて、あなたからの手紙。ちょうど3月に入ってなんとなく、でもずっと、考え感じていたことが重なったのでした。シンクロだなと思いつつ、思わず『いのちのために、いのちをかけよ』も買って拾い読みし始めたところ。

 

 母と女が延長線上に実はあったという発見、わたしも出産前後に感じたような気がします。妊娠が分かりいよいよ出産が近付いてきた頃に、非難・反感を承知で書くと「あぁ女って女って、本能がひらいてしまったら妊娠するものなのかもしれない」と閃いた。わたしは長年自分には妊娠出産する機能が整っていない、と思っていたこともあって、自分が妊娠したことが本当に意外だったし、出産までするとは信じられなかった。(なんとなく、今も半信半疑でいるかも)

 でも、仕事を辞めて、何も決めずに過ごす時間の中で自分がクリアになっていくにつれて、思考よりも感覚が優位になるというのか解放されるというのか、いろんな思い込みや無理から距離を置けるようになって、本能がひらいていったように思う。そしたらポコっという感じで妊娠した。今まで転勤する度に出会ってきた全国の婦人科の先生たちの顔が浮かび…その人たちの見たては別に間違いではなかった。けれど、それらを超えたところで妊娠するか否かは決まっているのだなぁと妙な納得感があった。体の機能がどうこう、じゃなくて、突き詰めると女だからそうなっちゃう、というレベルで妊娠するのかもしれないと…(これまた反感買うこと覚悟で…でもそう思ったから書くけど)しみじみ思ったのでした。

 そうなると、赤ちゃんが無事生まれてくるか・無事育つか・どう生きていくのか、ということも『いのちのために~』の著者ではないけれど、神のみぞ知るというのか、本人が決めてこの世に持ってくるプロセスなんだというふうに思うしかないような気がします。それは愛情があるないとは別の軸で、わたしと娘の関係性のベースに常にあるように、生まれた瞬間からずっととらえていること。これからもそのままでいるのかは分からないけれど。

 少しそれたけれど、母であることを通して女である自分を、あなたと同じくわたしもいま日々感じています。

 

 その一方で、社会人としての自分ということも考えることが多いこの頃。

 実は先日「(子供が病気になったりして)いつ休むことになるか分からない方なので、1年で別の方に担当を交代して(つまりわたしは降板して)もらうことを考えている」と言われて、ショックだったのでした。いつ休むことになるか分からないのは、誰だってそうじゃない?でもまだまだ企業にとっては、子供を持つ=いつ休むか分からない・ネガティブなイメージなんだね。その会社からは、これまでも妊娠が分かったときから子供=ネガティブという色合いの言葉やメッセージをちょいちょいもらっていて、それらの積み重ねもあって、しばらくは思い出しては残念な気持ちになってしまいました。

 しかし、私自身もマネジャーだったときに子供=ネガティブ というとらえ方を全くしていなかったか?と自分に問い直すとそんなわけはなくて。子育てと仕事の両立は「難しい」ことだったと振り返る。今は、女として生き・働き・ついには子どもを生んだので(それらが延長線上でつながったので)、難しいというよりもやることって感じなんだけど。出産後の復帰にあたって、何か自戒せよということなのか…謙虚に進めということなのかな。

 なにしろこれから4月になって保育園に預けながら仕事が始まるわけで、どんなふうにやっていくのか(まぁなんとかなっていくのだが)ドキドキしています。いっそ早く4月になってほしい!と一瞬思うこともあるけど、娘との時間を集中して味わおうと思っている時間が生活の大半を占めている。知らずにいるからこその幸せなのかもね。それもまあいいや。来年の今頃、美しく今日のことを思い出すのかもしれないな。

 

私の心の中にあなたがいる

いつ如何なる時も どこへ続くかまだ分からぬ道でも

きっとそこにあなたがいる

It's a lonely road But I'm not alone

そんな気分

 

 宇多田ヒカルのこの曲が入ったアルバム、お母さんのことを思ってつくったと聞いて、出産後よく聞いている。いつかわたしもこんなふうに思い出してもらえるんだろうかと思いながら。

 

 なんか今回はカミングアウトが多いような…吉村さんに感化されたかな。『いのちのために、いのちをかけよ』の中でしょっちゅう「女にはかなわん!」という言葉があり、出てくる度にそうそう!と思って読んでいます。

 ひなまつり(初節句)も無事終えて、女の血縁についても考える3月。←このへんの話題はまた今度。

母と女~『いのちのために、いのちをかけよ』吉村正~ゆきより

 一年以上ぶりのブログ再開、二人ともが母になり大変化して確かに笑えるよね。あなたらしい、いや、あなたらしさがより深みを増してパワーアップした、料理と大切なひとと自分の暮らしに対する愛おしさに満ちた文章に強ささえ感じました。この一年で、あなたも美味しい滋養あふれるスープのように、いいお塩で旨味が引き立ってるのではないでしょうか。そんなあなたにまた会いたくなったし、あなたの料理を味わいたくてうずうずします。

 出産と子育てで、本当に驚くほどの自分自身の変化や奥に実は秘めていたのであろうものに気づくよね。言葉にしてもしきれない感覚的なことが多いけれど、そういうのを感じるのは怖いような嬉しいような不思議な気分。今まで積みあげてきた自分や理性なんかが吹き飛んで崩れていくことに対する「なんてこった!」が私の中で毎日起きている。
 私は、それこそ感覚的に助産院での医療介入なしの自然分娩にこだわって、感覚的にきっと大丈夫って思ってた。たくさんの難しい、もしくは危なかった出産を周りから聞いてきたから一抹の不安はあったけれど、それよりもこういう出産をしたいって思いの方が遥かに強かった。感覚的なところ理屈的なところがまぜこぜになってややこしい私の性質上、自然分娩推奨派の文献を読んで自分の感覚的な判断の理由というか根源みたいなものを知りたい、確かめたいと思った。こういうところがあなたと違うよね。あなたは、自分の感覚を気持ち良く受け入れて、すぱっと行動してそれ以上でもそれ以下でもありませんよ、何か?って堂々としてる。そういうのも自己肯定感が強い故だと分析しては尊敬しているのよ。

人間の全身の細胞は六十兆個あるそうですが、その一つ一つには女の印がついているんですよね。これは女である知性が肉体の中に宿っているということで、どうしたら赤ちゃんを産めるか、何をすればどうなるか、この体がすべて知っているということ。

 出産するまでは、女という単語と母という単語はしばしば対義語として私の中でカテゴライズされていたように思う。一般的にもそうであるように思う。だけど、母になることは究極に女になることで、それまで「女」という言葉でイメージしてきたことの対義語ではなく明らかに延長上の突っ切っちゃった神の領域。私は今すごくすごく女であることを感じまくっている。
 出産しない、していない女性を非難したり傷つけたりしてはいけない(ミルク育児か母乳育児かのそれと同じだね)風潮をもろともせず、女性の神聖さや女は出産するために存在していることを断言しているこの本は、賛否両論が激しくある。この本で書いてあるのだけれど、一つ一つ、一人一人を傷つけないように過度に反応しすぎたりして、全体的な本質を言えなくなってしまって、そして見えなくなってしまうのは確かに違うのかも。
生きるって面白いね、経験するって面白いね、様々な考察は続きます。
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 酔っ払った夫に息子を任せて、買い物に出て帰ってきたら、夫はノックアウト状態で息子は一人で絵本を読んでいた。彼も本が欠かせない毎日を楽しんでいる。

春へ ~『志麻さんのプレミアムな作りおき』志麻~ りえより

 約1年半ぶりの手紙!前回までの手紙を読み返して、お互いの状況のあまりの変化に、笑ってしまいました。いまや「母」だもの。前回の手紙を書いたときのわたしは、妊娠すら知らなかったというのに。

 

 今日はあたたかい日でした。用事があって出掛けたのだけど、冬と春のあいだのような晴れた日差しの穏やかさが心地よくて、娘を抱っこしてあちこち寄り道しながら帰ってきたのでした。まさに今日、生後9ヶ月になった彼女は体重8Kg。家に着く頃には肩がみしみしと悲鳴を上げていましたが、どうしてもベビーカーよりも抱っこが好きなんだよなぁ。ふたりでいるのに一人のような身軽さ。ぴったり互いの心臓を感じられる密着度。守っているのか守られているのか分からなくなるような。

 帰ってから、さっそく我らがスーパー・玉出で買い求めた長葱を料理。今夜のメインは長葱をたくさん薄い小口切りにして、豚肉と、昨日できたばかりの自家製塩麹と一緒に炒めたもの。かさの大きなしいたけは、団地に時々やってくる産直出張販売所で買った。お味噌汁にしたのがもったいなかったなと思うほど、深々とした土のにおい。規格外の小さな人参は、離乳食に使ったときなかなか柔らかくならなかったけれど、塩麹できんぴらにするとほどよい歯ごたえに仕上がった。

 

 子どもが生まれて、ますます料理と共にある毎日。この世界に現れたばかりのぴちぴちの命に触れ、食材の命に触れ、自分の命も日々垢が落ちていくよう。大学時代のアルバイトのときから料理は好きでやってきたけれど、家でこんなに料理をしたのは人生で初めて。出産に伴う、思いがけないチャンスだと思う…自分や他人のからだをつくる“食事”に、間断なく携わることのできる。

 最近料理のバイブルとしているのが、『志麻さんのプレミアムな作りおき』。昨年末に買ったのだけど、その前にストーカーのように本屋に立ち寄る度に探し、開いては買おうか迷うという期間を3ヶ月経て買ったので、もう長い付き合いのような気がしている。フレンチの料理人で、今は家事代行・出張料理人の志麻さんのレシピを紹介しているものなのだけど、単なる料理本ではなく家庭料理に寄せる志麻さんの思想が紹介されていて、そこが味わい深い一冊だと思う。

 

今日はうかがう前から、野菜スープを作ろうと思っていた。

フランスの家庭料理は、塩とこしょうが基本だ。塩は、塩味をつけるだけでなく、素材から水分を出してうまみを凝縮させる。塩によって引き出された素材そのもののおいしさが、家庭料理の基本である。今日の「農家の野菜スープ」も、まさにこの「下味の塩」で立ち現れる野菜のおいしさだ。 

 

  本で紹介されている「農家の野菜スープ」的なスープは、以前からしょっちゅうつくっていたけれど、「野菜のおいしさが塩で立ち現れるんだ」と思いながら細心の注意を払いながら塩を使うようになった。スープの味は大きく変わっていない気がするけれど、スープ作成中の癒し度は格段に違う。おなかが空いて…または眠くてわあわあ騒いでいる娘をあやしながら、おんぶしながらでも、なべの中で起こる変化に心のどこかはぎゅっと釘付けになっている。それは、娘の方も同じなのかもしれない。食い入るように見ているから。

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 毎日の食事を整える幸せ。自分や大切なひとのからだをつくる、一菜一菜を生み出す仕事のたのしさ。

 仕事が始まると、そんなふうには思えなくなるかもしれないと心の片隅でひやりと感じている。それだからこそ、今夜の食卓をつくることが愛おしくてたまらないような。あなたとやり取りした離乳食についてのキャッチボールも、すでに少し懐かしい。

 

 また持ち寄りでごはん会しよう。外で食べるのもいいね。子どもも大人も食べられるように工夫された料理は、それだけで時間を豊かにしてくれる。春が待ち遠しいね。

手紙回想~『花の降る午後』宮本輝~りえより

 久しぶりにたっぷりと、雨。前回の手紙以来、10年くらい前の懐かしいメロディが頭の中に次々めぐるのを楽しみつつ、雨の日ならではのすべてが潤う感じを心地良く味わう朝。

 

 この前、以前勤めていた会社で長く「相棒」だった男の子から手紙をもらった。彼とはその会社を辞めた去年から、時々こうしてやり取りをしてる。自分の近況と、相手を応援するメッセージ、共有した眩しいような密度の濃い時間について書いてある。「一緒に何かを始めるとき、ワクワクするんだよなぁと思い出しました」という言葉があって、嬉しくて、しばらく忘れていたその感覚に急に胸がぎゅっとなった。

 ほんと、手紙は思いがけないプレゼントだと思う。次々に去っていく優しく馴染み深い時間を、突然甦らせてくれるよね。

 そしてそのときどきに湧き上がる感情も、自分のもののようでそうではないと思う。目には見えない、手紙によって繋がった相手とわたしの間に、かつて確かに流れていて、そして今は熟成した時間が見せてくれる風景みたいだと思う。

 「相棒」の彼からの手紙。働くことへの勇気や誰かと組むエネルギーみたいなものを思い出させてくれた。

 

 そして、あなたがかつて旦那さんから受け取ったというカード!見たことないよー見せて見せて。楽しみにしてる。

 まだ見てもないけど、好きなひとと離れて過ごす、しんみりしてきゅんとして、どこかホッとするような気持ちを思い出しちゃった。彼の書いた文字を見て、こんな字を書くひとだったんだーなんて新しくその人と出会った気がしたり、文章を紡いでくれた時間を愛おしく感じたり。ふたりのプロセスがどこであっても、好きになったばかりのときを思い出すような、そんな気持ち。

 

花の降る午後 宮本輝

ひとりになると、典子は浴衣に着替えて、虚ろな心で食事をとった。食事を済まして、彼女は改めて手紙を何度も読み返した。

哀しみは、亡き夫への思慕と思いやりに変わっていった。

 

 亡くなった人からの手紙をきっかけに、出来事が進んでいく小説。手紙を読み返す中で変化していく気持ちがあるよね。

 「相棒」からの手紙になんて返事しようか考えるのがここ数日の楽しみ。相手が今日もどこかで暮らしているからこそ、言葉を思いを交わし合うことができる。


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 彼の手紙にはおまけで素敵なカードも同封されていた。さっそくお気に入りのスペースに仲間入り。

欲しいもの~♪JAM THE YELLOW MONKEY~

 吉田拓郎の歌声をあんなにぴったりしっくり、そしてさらりと表現した文章にズキュンと胸を撃ち抜かれました。改めて参りました。思い出して読み返してはうっとりしました。前ふりで、クラシックが聴きたいと言いつつ吉田拓郎かよ!と突っ込みたくなるお茶目なところも楽しみました。そこで今回は、あなたの記事へのアンサーソングでお返ししたいと思う。

 

♪JAM  THE YELLOW MONKEY

儚さに包まれて 切なさに酔いしれて

影も形もない僕は

素敵な物が欲しいけど あんまり売ってないから

好きな歌を歌う

 

 

 今年はイエモンをよく聴いた。部屋で、車の中で。再結成されてテレビに出ているのを見て、体の奥に隠れていた青春時代の琴線をぞわぞわっと刺激された。今は忘れし多感なあの頃に過ごした時間と感じたものすべてがスペシャルだったのだと思わずにいられない。

 

 吉田拓郎(あなた)に尋ねられて、欲しいものは何かと考えていた。だけど何もなくて、代わりに「予期していなかった素敵なものを手にしたときの喜び」の感覚がむくむくと私の中で思い出されていった。例えばあなたからもらったブレスレットとか。それはそれは幸せな気持ちで満たされて、欲しい物を手にしたときの何百倍のセロトニンが出るだろう。本や歌詞の一節にも、同じように思ってもいなかった素敵な言葉をもらって幸せになるよね。今回の吉田拓郎の歌声についてもそうだし、今までのあなたからの手紙でもいっぱいそういうことがあったな。

 

 予期していなかった素敵な物と言えば確かに手紙かも。オリンピックを見ながら、8年前に主人からもらったリオデジャネイロの絵葉書を思う。筆下手の彼が奇跡を起こしたような愛らしいメッセージが添えられている。あまりにも素敵なので今でも飾っている。見せたことあったかな?もしなかったら、今度うちに来たときに見せてあげるね。

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 初秋の風をあびながら今日も好きな歌を歌う。

 あ、今欲しい物を思いついた。今年こそやっぱり秋刀魚皿が欲しいな。

秋へ ~♪流星 吉田拓郎~りえより

 夏の美しい風景を、ふたつ続けてありがとう!明るく、それでいてうっすらと感傷を感じる、夏の終わりを告げる文章。何度も読んでしまいました。

 そしてそうこうしている間に朝晩涼しい日が続いて、あぁ秋が来たんだなぁと感じます。

 

 六占星術によるとわたしたちは金星人+で、7月から9月までが1年の中での要注意月なんだってね。夏が大好きなわたしはあまりそれを感じることはないけれど、9月は、何かが終わりそして始まる、カオスというか混じり合うときだなと思うことは割合これまでもあった気がします。

 今年も幾つかプロジェクトが始まって、会社を辞めてから久しぶりに少し忙しくなりそうな予感。

 新しいことが苦手なわたしだけど、なんだか悪い気がしないのは、秋だからかな。音楽や読書を、長い夜にますますジューシィに味わえる気がする秋。特に秋のはじめはクラシックが似合う。いろんな出来事が混じり合うときだからこそ、正しく整った音楽が聞きたくなるのかもしれない。

 

 毎日ではないけれど早朝に大阪城公園に行って、敷地にある神社にお参りした後、静かに15分くらい過ごす時間が、最近の愉しみ。

 いつの間にか蝉の声が聞こえなくなって、虫の声に変わっている。空の高さがぐんと高くなって、雲が次々に移ろっている。風が連れてくる匂いは葉っぱや蔓や、乾いた木の匂い。昨日のことも今日これからのことも、横に置いて、いま自分がこのからだを通して感じていることだけを味わう時間。大地や空とつながっていて、大きな世界のひとつとしてのわたしに気付く時間。

 そして帰り道、今日出会うひとや今夜のごはんのことをしっとりと思い巡らせる。なんだかゆるくのびやかに時間の軸が拡がっていくような、新しい一日が始まる予感に満ちた帰り道。

 

♪流星 吉田拓郎

流れる星は 今がきれいで ただそれだけに哀しくて

流れる星は かすかに消える 思い出なんか残さないで

君の欲しいものはなんですか

 

 

 吉田拓郎のよろめきながらしっかり届く、たくましいようで優しい歌声を、秋の入り口に聞きたくなった。

 名残惜しく夏の余韻を感じながら、心もからだももう秋を迎え受け容れていることに気付く。大自然もひとの心もたわわに実る、豊かな季節がやってくる。


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田舎の風、夏空に想う~『夜空の下で』益田ミリ~ゆきより

 お盆、毎年恒例になっている夫の田舎へ行ってきた。今はいない夫の祖父母の家が空き家となってあり、その家で育った義父たち三兄弟が集い草刈りなど家のメンテナンスを行う。一日目はその家で義父とおじらが雑魚寝して、二日目の昼頃私たち夫婦といとこが到着し、お昼を食べて午後には近所にある村のキャンプ場のバンガローに移動し宿泊する。何もすることはなく、周りを散歩したり昼寝をしたり高校野球を見たりして、夕方からのバーベキューを心待ちにする。合間にお墓参りはするけれど、大量の時間の中のほんの一瞬で終わる。

 のんびりした時間の中で、みんな気持ちよさそうな顔をしてゆったり田舎の空気を感じている。やることはないけれど、退屈ではないというような。各々が思い思いに故郷を感じて懐かしみ、慈しみ、風を受けては子どもの頃に心が戻っていくのが見てわかる。祖父母もいないし、親戚もほとんどが都会に出て行った。傾いた家はあるけれど、住める状態ではない。だけど失いたくなくて、心の中にある故郷を確かめて照らし合わせるように訪れているのだと思う。何もすることがない時間は、それぞれがタイムスリップしている大切な時間。

 

 夜にはたくさんの星が見える。虫の声と木々の匂いを感じながら、夫と広い夜空を見上げた。吸い込まれそうで世界に私と夫だけみたいだった。「来年は三人だね。」と夫が言った。「そうだね、楽しみだね。」と言いながら本当にそう思ったのと同時に、少しだけさみしい気持ちにもなったので、「でも二人でもまた見られるかな。」と言った。「見れるよ。」と夫が言ってくれたので安心して星空に身をまかせた。

 

夜空を見上げたって

そこには夜空以外ないのだけれど、

もしも、

もしも、夜空を一生見てはならぬというおきてができたとしたら

人の想像力っておとろえてしまうんじゃないか

 

 

 益田ミリさんの『夜空の下で』より。旦那さんに心無いことを言われてしまって、奥さんが怒ってコンビニに出ていく。ちょっと反省して奥さんの帰りをマンションの入り口まで出て待っている旦那さんが、星空を見上げながら思うシーン。この後、旦那さんは「なんつーか、息がつまるわ。」とつぶやく。私は「ほーんと、そうだよね。」と思わず言ってしまう。

 

 田舎からの帰り道、素敵な蓮畑がある。田舎の山と青空に映えて桃色の蓮がいきいきと咲いている。夜空を見上げて、過ぎ去ったことと遠い未来を思った昨日。今はこの晴天に今日の元気をもらう。

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